ノベルなび

ノベルなび

<ああ>


ジャンル:
場所:ああ
    ああ

ラビット号と彼女<上七軒>

籐野リタ
ジャンル:小説
場所:上七軒
    Kamishichiken

歌舞(かぶ)練場(れんじょう)の坂を上る途中で、千里(ちさと)はちょっとの間(ま)、空のかなたを見上げた。ふっとため息がもれて、立ちこぎのまま、前掛けの間を風が通り過ぎていくのを心地よく味わった。北野(きたの)天満宮(さん)の杜のかたなには、入道雲がもくもくと湧きあがっていた。
――もう、夏なんだなぁ――
三差路に出ると前かがみの姿勢で、慎重にペダルをこいだ。右に行くと小学校で、さらにその向こうが平野神社。左に折れると千本(せんぼん)釈迦堂(しゃかどう)で、千里はどちらにもいかないで、ななめに伸びた小路へと折れていく。
――夏だからって、どうってことないけどーー。
前掛けの “棚橋寿三郎日本酒店“ の文字はすでにはげかかっていて、この戦前仕様のラビット号は、フレームもチェーンもハンドルだってさびさびの代物だけれど、千里の頼もしい相棒にはかわりない。どこに行くのもいっしょで、この西陣・北野かいわいでは、棚橋酒店と言うと、ラビット号で配達に来るお兄ちゃん、という人もあるくらいだ。祖父の代からのもので、やがて祖父から父に受け継がれ、再び祖父へと戻って、三年前に祖父が亡くなったのと同時に、千里がゆずりうけた。父を早くに亡くし、祖父が亡くなったのとほぼ同時に、ドュッセルドルフに家族で転勤が決まった兄は、当分、京都には戻れないだろうと言った。高校を中退したあと、長らく無職の身の上だった千里。店を継いだのは、自然な成り行きみたいなものだった。
その日は午後一番に、上七軒の“花籠”に日本酒とビール一ダースを届けるよう言われていた。花街は昼間、表戸を閉めていて、御用聞きの人間は、必ずお勝手から入るようになっている。店の裏口は通路が狭く、自転車ごと中に入ることができない。だから千里はいつも、お勝手に続く裏木戸の前に自転車を停め、よっこらせっと重いケースを担いでいかなければならない。通路は人一人通れるのがやっとで、まっすぐの姿勢では不可能だ。下駄の鼻緒が裸足の指にくいこむくらいにつま先立ち、下腹部にひたすら力をこめ、身体を心持ち斜めにしながら進んでいく。玄関口に辿りつく頃には、だからいつも汗だくになっている。
「よう、おきばりやすなぁ」
奥から出てきた和服姿の女将さんが出迎えてくれる。母よりずいぶん年上に見えるけれど、とても艶っぽい。薄化粧に品があって、ぷっくりしたまぶたの下のまなざしがやけに優しい。
「すごい汗、ちょっと待ってなさい」
戻ってきた女将さんの手には、冷やし飴の缶が握られていた。
「すんません、いただきます」
缶はよく冷えていて、熱を持った手のひらに心地いい冷たさだった。千里は、その場でごくごく飲んだ。
「缶は、ほかし(・・・)といたげる」
手を伸ばし、空き缶も引き受けた。
「おおきに、すんません」
千里は、帽子をとるとちょこんと頭を下げ、そのままくるりときびすを返した。黒い格子戸とよしず。提灯に灯りがともるまでの花街は、眠っているように静かだ。ひさしの下の日蔭のところに、猫がいっぴき寝そべっている。ころころしたミルクコーヒー色で、その寝姿に思わず目を細めながら、千里はそろそろとラビット号のスタンドに足をかけた。荷台に日本酒の一升びんと、洋酒が三本くくりつけてあって、これがけっこう重い。ハンドルを握る手に思いきり力をこめ、せーの、という感じでスタンドを後ろに蹴りあげる。一気にサドルにまたがると、抜け道の小路を軽快に走りぬけて行った。通りに出るところで少しスピードを落とす。馴れたもので、かえって気が緩んだのかもしれない。自転車は右に回ったところで、斜めに傾ぐようにして通りに飛び出して行った。さっと目の前に黒いものがよぎった気がした。あわててブレーキをかけたけれど、間に合わなかった。
”ガシャ、シャーン“
荷台にくくりつけてあった酒瓶が道ばたに吹っ飛び、同時に小さな悲鳴が上がった。とっさに後ろを振り返ると、スミレ色の液体が、ぷつぷつと泡沫を浮かべて路肩に流れ出していた。そのかたわらで、スーツ姿の髪の長い女性がぼんやり立ち尽くしていた。千里は飛び散ったガラス片を踏まないように気をつけながら、はあはあと肩で息をつきながら、近づいて行った。
「すんません」
深々と頭を下げてあやまる。
「怪我、ありませんでした?」
大きなショルダーバッグを抱えたその女(ひと)は、取り出したハンカチでスーツの裾を拭っていた。千里よりずい分と背が高い。キリンのように長い身体を折り曲げていた彼女が、気配に気づいてこちらを振り返る。目と目が合って、なんだかぶるっとする。導火線が、かちっと音をたてて点火する感じ。火はまたたくまに千里の全身を駆けぬけていた。
「どうも、すんません」
それから、もう一度、照れ隠しのように頭を下げた。情けないことに頭をあげるタイミングがわからず、そのままの姿勢を保っていた。一分もそうしていただろうか。頭の上で何かが割れるような音がして、それが笑い声だと気づくまでは、それでも時間がかかった。はっとして顔を上げると、かがみ込むように、ハンドルの下のウサギの頭をなでている。
「ラビット号か。可愛い名前ね」
夢みたいななりゆきだった。彼女はみずから宇佐美アカネと名乗ると、自分は東京のコンサルティング会社に勤務しているのだけれど、上司から、京都の老舗店についてのレポート作成を命じられていて、棚橋酒店を見学させてもらえないだろうか、なんて言ったのだ。カエルの置物のある薬局店の角を曲がると、平屋の家並みが続き、路地の中ほどに“棚橋寿三郎酒店”のにじんだ墨文字の看板は見えてくる。店番をしていた母は、自転車を押しおし、女連れで戻ってきた千里をちらといちべつしただけだったけれど、事情を知ると、眼鏡がすり落ちるような勢いで飛び出してきて、彼女に深々と頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした」
「いいえ。前をよくみていなかったわたしが、悪いんです」
母は眼鏡の中から上目づかいにその顔を眩しそうに見上げ、彼女が店の中を見て回っている間、上機嫌で棚橋酒店の歴史を語っていた。それから“静香”に出向いたなりゆきも、嘘みたいだった。彼女が帰りがけにふとたずねたのを、店の女主人と友達の母が、“千里、案内してあげたら”なんて言い出したのだ。外国の煙草屋みたいなタイル張りの丸くつきだした外観も、古い二等列車みたいなボックス席の感じもまるで変わってなかった。中学生にきた時以来で、千里はなんだか吹き出しそうになる。
「あの時、この店を探していたのよ」
宇佐美アカネは、ミルクティーのスプーンをカップの中で軽くもてあそぶようにしながら、話し始めた。千里は、静香がニューヨークタイムズに掲載された時の話を聞かされて、思わず身体をのけぞらせた。
「そんなこと、ぜんぜん、知らんかった」
「君、ほんとに京都の人」
「どうして? 」
「京都の人って、おしゃべりで噂好きって聞いてたから」
「僕は、そうじゃない?」
「うん、ぜんぜん、違う」
「それって、褒め言葉?」
「もちろんよ」
彼女は髪の毛をかき上げながらころころと笑い、ふと珍しいものでも見つけたように、
「あら、この店にはテレビがあるのね」
通路の先の古いビクターの蓄音機。その上にはテレビが乗っけてあって、低くニュースが流れていた。
「昔からこんな感じ。少しも変わってないの。じっさいこの店。七十年以上、一度も改装とかしてないんだよ」
千里はちょっと声をひそめてみせた。
「でも、変わらないって、いいことじゃない」
彼女は真面目な顔で言う。その表情になんだか気圧されそうになる。美人というのは、真剣な話をする時は、ちょっと恐い顔になるんだな、というのを千里は初めて知ったのだった。
「でも、来てよかった。お店も見学させてもらったし、いろいろ勉強にもなったわ」
「――」
「レポート、いいもの書けそう。千里君のおかげね」
「僕はなんにもしてないよ」
千里は思わず東京言葉で返した。
「大切なことを教えてくれたじゃない。お辞儀をする時は、お母さんも君も、必ず深々と頭を下げるの。ちょっと新鮮だった」
やがて店を出る段になって、前をさっそうと歩きだしていた宇佐美アカネは、思いついたように振り返った。
「よかったら、今夜、いっしょにお酒でも飲まない」
夜、千里は、ビデオを返しに行くと嘘を言って家を出た。それから国産ワインも一本拝借した。これは帰りがけ、彼女にプレゼントするつもりだった。ホテルのバーは、さぞかし高級だろうから、せめてものお礼のつもりだった。それを荷台にくくりつけ、繁華街にほど近い約束のホテルへと自転車を走らせた。ラビット号は思いのほか快調に走り、おかげで時間までにどうにか到着できた。それでも回転ドアをくぐったとたんは、ちょっと度肝を抜かれた。太い柱が何本もそそりたつロビーのながめは、古代のローマの神殿にでも迷いこんだようだった。さすがに下駄からスニーカーに履き替えてきたけれど、ふかふかのじゅうたんは、なんとも歩きにくくて、何度もつんのめりながら、千里はうす暗いロビーをひととおりみて回り、彼女の姿がどこにも見当たらないことに失望して、うなだれてそばのソファーへと腰を落ち着けた。ふと思い直したようになったのは、別れぎわの彼女の言葉を思い出したからだった。
“今からホテルに帰って、食事をするけれど、食後のあと、いつもの癖でひと眠りすることがあるかもしれないから、そんな時はドアをたたいてみて”
千里はエレベーターのチンと小気味のいい音を合図のように、わき目もふらず箱に飛び乗った。階のボタンを押す手が震えているのがわかった。彼は透明のエレベーターの窓から、夜の街が花火のようにきれいなのに気づいた。御池通りの噴水。青い照明が絵の具のようににじみ、焦燥をかきたてる。遠くで京都タワーが、チカチカとウサギの目みたいに赤くまたたいて、そのたびに胸がドキドキとなった。十三階でエレベーターが開くと、心臓はもう喉から飛び出しそうだった。廊下を歩いている間は、何度もよろめいて、まるで砂の中を歩いているみたいだった。1310、1309、1308。あともう少し、というところで、彼は今一度息を整えた。そしてとうとうその番号が見えてきたところで、急停止した。最後にもう一度番号を確かめ、ゆっくりと部屋の前まで近づいて行き、意外なことを発見する。ドアが半ば開いていたのだ。ロック式なのにおかしいな、とのぞきこむと、彼女のハイヒールの片方が、ついたてのように扉にひっかかっているのだとわかった。部屋を出ようとしたところで、不測の事態に遭遇し、あわてて駆けもどったというところだろうか。
針みたいに鋭い声が響いてくる。ドアの手前に千里は、思わずあとずさりする。
“ひどい言い方。あたしをいったい、なんだと思ってるのよ”
彼女が泣いているのだとわかると、千里は反射的に新聞紙で包んできた小樽産のワインを、ドアに立てかけて置いた。それから未練な気持ちを振り払うように、どたどたと大きな音をたてて雲みたいにふわふわの廊下を駆けて行った。
翌日も晴天だった。千里は祖父の亡くなった日のことをふと思い出し、それからいつものことばを口笛まじりにつぶやいた。
――どうってことない。うん、どうってことないやねーー。
店の外に出るとゆっくりと背伸びをし、注文のメモがポケットに収まっているかどうか確かめてから、母が準備しておいてくれた酒瓶の積みこまれた自転車のハンドルに手をかけた。
「ラビット号、くん」
声がして振り向いたとたん、夢を見ているのではないかと思う。夢を見ているのではない証拠に、握りしめた手のひらに、ハンドルの錆びた鉄の棒が、軽いうずきを伝えてよこした。アカネが駆けてくる。肩で息をついている。
「昨日はどうしたの?ずっと待ってたのよ」
胸のドキドキはマックスに達していたけれど、千里はわざと素っ気なく言う。
「配達に行かなきゃ」
「ストップ」
とつじょ行く手をふさがれてしまう。前に回った彼女が、ハンドルを押さえこんでいて、その力が想像以上にものすごかったのだ。
「配達は、今日一日、わたしの仕事」
「ええっ」
見上げた先に、彼女の顔があった。にこにこしている。
「頭の固い上司から、レポートをダメ出しされたの。悔しいから、現場で働いて書きなおそうと思って。千里君、悪いけど協力してくれない?」

お地蔵さんのお守りさん(室町 あき)<烏丸御池下ル>

室町 あき
ジャンル:
場所:烏丸御池下ル
    karasuma oike sagaru

 彩は、昨日この町に引っ越してきた。朝、明るくなるのを待って「探検」を開始。まだ誰も起きだしていない静かな町に飛び出した。気になっていたマンション裏のひっそりとした路地。

 路地の奥で、少女は、一心にお地蔵さんの祠を磨いていた。小菊の花を祠に供え、手を合わせて頭を下げると、振り返った。

 「おはよう」。待っていたかのように少女は彩に言った。

 「この町内には、人が住んでいなかった。あのマンションが出来たときから、人がやってくるのを待っていたわ。これから、このお地蔵さんのお守りをお願いします」

 そういって、彩の手を握った。彩は、不思議な気持ちで、路地を出て行く少女を見送りながら、手を見た。手の中に、鍵が一つ。

 夢を見ているようだった。でも鍵は、ここにある。学校に行っても、ご飯を食べていても、ぼんやりと少女のことを思った。あれは本当のことだ。

 次の朝、彩はもう一度路地に行った。お地蔵さんの祠。

 よく見ると赤い前掛けをした石のお地蔵さん。水の入った小さな茶碗に葉っぱが入って、少し汚れていた。

 彩は家に走って帰って、ペットボトルに水を入れ、戻ってお地蔵さんお水を供えた。そして、少女が供えた小花の水も入れ変えた。

 数日後。商店街の花屋さんに行った。

 小さな声で、「お地蔵さんの花ありますか」。

 おばさんが出てきて「はいはい、ありますよ。えらいのねえ、どこのお地蔵さんにお供えするの」。

 「路地の奥」と言うと、「そうなの」と彩をしげしげと見た。「あなたが次のお守りさん」。

 不思議に思った彩は、「お守りさん?」。「そうよ、お守りさん」。

 あのお地蔵さんは、去年まで、角の良子さんがお守りさんをしていたの。でも病気で亡くなってから、だれもお地蔵さんのお世話をする人がいなくなっていた。町内に人がいなくなったから。

「でも、私はお姉さんから鍵をもらったわ」
「お姉さん?だれかしら」。
「髪の長い、きれいな人。」
「もしかしたら、眷属さん、きっと眷属さんだわ」

 おばさんは話し始めた。

 京都のお地蔵さんは、町内で守るのが慣わしなの、ずっと昔から。

 はやり病や戦乱で、子供たちが幼くして亡くなる時代。親たちは子供を供養するためにお地蔵さんを祀った。お地蔵さんは子供たちを護ってくれる仏様だった。だから、今も、回り持ちで大事にお守りしているの。

 でも、お守りする人がいなくなったら、お地蔵様の家来だった眷属さんが、代わってお守りするって聞いたことがあるわ。眷属さんは、お地蔵様と一緒に子供を護った動物たち。狸や狐だと思う。

「え、あのお姉さんは狐だったの」
「眷属さんなら、歩き方を見たら判るわ。化けるのは上手でも、靴を履くのが大の苦手だから」

 彩はあの朝のことを思い出した。

 そういえば、お父さんの履くようなぶかぶかの革靴、ずるずる歩いて路地を出て行くお姉さんの後姿を。


神獣たちの宴(仲町六絵)<大豊神社>

仲町六絵
ジャンル:ファンタジー
場所:大豊神社
    Otoyo-jinja Shrine

 紅白まだらの椿の花が、夕闇にしたたるほどの蜜をこぼしていた。幼かった私は、指でそれをすくって舐めた。母親をほんの少し心配させたかっただけの、小さな家出だった。私の生家は椿の咲き乱れる大豊神社から、歩いて十分も離れていなかった。

 椿の蜜は、のどに沁みるような甘さだった。もう一度舐めようと手を伸ばすと、飛んできた小鳥が枝に止まり、花弁にあふれる蜜をつついた。くすんだ緑色の小鳥は、くちばしを開けて「ヂィ!」と鳴いた。

 その時だった。頭上でふわりと羽音がした。鷹に似た大きな鳥がたそがれの空に舞い上がり、輪を描いて飛んだ。トンビだ、と思った。
 
 小鳥がふたたび「ヂィ」と鳴き、椿の茂みから一匹の猿が飛び出してきた。二本の足で跳ね回りながら、手にした日の丸の扇を高く低くひるがえし、楽しげに踊った。さらに小鳥が鳴くと、二匹の白いねずみが砂利の上を駆けめぐった。猫よりも大きなねずみなど、はじめて見た。

 暗い境内でうごめくもの達のうち、人間は私一人だった。金と緑の毛皮を持った、二頭の狛犬が石段を降りて来た時には、食われてしまうと震え上がった。

 大豊神社を守っている石の神獣は、狛犬のほかトンビ・猿・ねずみだと、幼かった私もすでに知っていた。家出などするから神獣達が罰を当てに来たのだと、私はおびえた。
 しかし、彼らが私をとがめる様子はなかった。降りてきたトンビも加わって車座になり、どこから出してきたのか白い徳利と盃で、宴を始めたのだ。
 
 猿が舞い、ねずみが酌をして回った。盃は私にも配られた。中身をおそるおそる飲んでみると、さっきの椿の蜜であった。私は、思わず「おいしい!」と口走った。

 その途端、神獣達が一斉に私を見た。

 猿が宙に躍りあがって「人じゃ! タビガミ様ではない!」と叫んだ。今思うと、タビガミは「旅神」かもしれない。神獣達はみな逃げ散って、椿の木陰に消えてしまった。緑の小鳥も飛び去った。
 一人残された私は、どこか寂しいような気持でとぼとぼと家に帰り、母親にこっぴどく叱られた。

 夕暮れに、大豊神社の椿の蜜を舐めてはいけない。タビガミ様と間違えられたままなら一体どうなるのか、私にも分からないのだから。

恋辻(チャムス)<大原三千院>

チャムス
ジャンル:短編小説
場所:大原三千院
    Oohara-Sanzen-in Temple

幾度かの小旅行は、いつも彼の車で訪れた。

いつものように手際よく、三千院すぐ側に車を預け、境内に向かう。

夜には加茂川沿いで御陵鍋を予約しているし、少食の彼は滅多に途中で何かを食べたりしない。けれど私はきっとまた、宝泉院でお抹茶と一緒にいただく和菓子の誘惑に勝てないだろう。

初めて彼とここを訪れた時、最も印象に残ったのが宝泉院の血天井だ。

血の痕を見ながら抹茶と和菓子なんて、と思ったものだが、いつの間にか史実の説明に耳を傾けあちこち座って抹茶を飲む、他の観光客に加わるのが常となった。
間食にも甘い物にも無関心な彼が、自分の分の和菓子をくれる。「しょうがないな」というその感じが好きで、無邪気なふうでたいらげる。

やがて手をつないでゆっくりと参道を下って行く。
必ず買うことに決めている漬物屋以外は、気楽な好奇心で彷徨う。
あまり下り過ぎたら帰りがしんどいね、と話しながら。

もう何度目の大原だろう。何度目の京都だろう。
私たちのような二人には、何かしっくり来る場所。
守られ、戒められ、隠し、そっとしておいてくれる。
多くの恋人たちが、訪れているのだろう。
始まる時、答えを出せないでいる時も、終わりが分かっている時にも。

ふと、昨日の彼の一言が私を襲った。
「子どもが生まれた」
突き上がる、空虚な気持ちが蘇る。

ワタシトイルノニ?
ワタシトイタノニ?

血天井は血を流している。
その中で、何でもないみたいにお茶を啜る。
心が血を流しているけれど、微笑みながら手をつないで歩くのに似ている。

最初から静かに降積り、万年雪のように心に染み付いている。
つないだ手を少し強く握ってみる。
前を見たまま、強く握り返してくれる手の温もり。

そろそろ日が傾いて、冬の冷たさに爪先が痺れ始める頃、諦めて参道を車へと引き返す。
名残惜しいけれど、個室の座敷でのご馳走や熱燗が待っているし、一緒に過ごせる宿もある。

車に戻り彼がエンジンを暖めている間、どんどん暮れていく冬の景色をぼんやりと眺める。
私の場所だと感じていた助手席が、ふと冷たい感触に変わった。

きっと私はまたここを訪れるだろう。
あなたとの特別な場所なんかにしないで、また別の誰かと手をつないで。

何もかも分かっていて、あなたと訪れる京都はいつも凛としていた。

鴨が楽しみだね。今日はゆっくり泊まれるね。
混み始めた夕暮れ時の市街を走りながら、いつもの会話をかわす。

人は何度もここを訪れたくなるのだろう。
始まる時も、最後だと知る時も。

いぬとロケット(tat.)<柊野>

tat.
ジャンル:ファンタジー
場所:柊野
    Hiiragino,Kita Ward

オトは俺が幼い頃に家に来た雑種犬で、俺の弟分だ。

親も手を焼くバカ兄弟に成長した俺たちは、上賀茂神社の近くにある我が家から賀茂川上流にある柊野ダムまでの道を毎日散歩した。ダムの周りは住宅と畑ばかりだが、その中にぽつりと「三星化学研究所」という緑色の小さな工場が佇んでいる。空に向かって伸びる煙突と、搭のような機械をロケットの発射台だと思い込んでいた小学生の頃の俺は、その少しくすんだ景色が大好きだった。

「オト、いつかここからロケットに乗って二人で月へ行くで」

阿呆丸出しの俺の言葉に、オトはいつも間抜け面で尻尾を振っていた。

でもその夢はすぐに砕かれることになる。散歩中に偶然会った友達にその話をして、あれは発射台ではないと教えられたのだ。バカにしたような目で淡々と説明されて俺はとても悔しかった。兄貴なのに弟にウソついちまったって。


 あれから数年。オトはかなりの老犬になり、その命は今まさに燃え尽きようとしている。
ぐったりとしたオトの側に、俺は大学を休んでずっと付きそった。そっと撫でたオトの身体は昔と同じ温かさで、その心地よさに俺はつい居眠りをしてしまったらしい。

 夢の中で、俺はあの三星化学研究所の前に立っていた。目の前にはあの煙突と搭がそびえ建ち、そこにおもちゃのような赤いロケットが設置されている。そのロケットの前で、オトがきちんとおすわりをしていた。

「オト?」

俺に気づいて駆け寄ろうとするオトを、どこからか現れた黒い影が静止する。影はそのままオトの頭に透明なヘルメットをかぶせると、静かにロケットを指差した。

「お前、オトをどうする気や!」

俺はオトに駆け寄ろうとしたが、なぜか身体が全く動かない。夢中でもがく俺に、ロケットに乗り込んだオトが右足を小さく挙げて尻尾を振った。

「おれ、ロケット乗るよ。月に行くよ。にいちゃんは、うそつきじゃないよ」

それは声ではなかった。でも、たしかにそう聴こえた。あれは絶対にオトの声だ。

「うそつきでええよ、行くなよ!」

俺の叫びもむなしく黒い影がロケットの扉を閉める。扉の隙間から見えたオトは、昔のままの間抜け面だった。

「3…2…1…」

カウントダウンが、始まる。

「オトー!」

俺の絶叫とゼロ、のカウントが重なり、ついにロケットはオトを乗せて飛び立った。くすんだ緑色の塔を発射台にして、青い空に向かって高く、高く……。


 そこではっと目が覚めて、慌てて隣を見るとオトはもう息をしていなかった。

「オト…」

オトは行ってしまった。あの場所から赤い小さなロケットに乗って。

「ぬけがけすんなよ、弟のくせに」

そう言って俺は泣いた。最初で最後の弟とのお別れに、声をあげてわんわん泣いた。

ニルヴァーナ(五十嵐彪太)<本法寺>

五十嵐彪太
ジャンル:ファンタジー
場所:本法寺
    Honpou-ji Temple

 空飛ぶ絨毯を追いかけている。こんなに大きな絨毯が宙を浮いているのに、歩く人も、車も、誰も気が付いていないみたい。上を向いて走るわたしに、時々不審そうな視線が刺さるのがわかる。「お嬢ちゃん、迷子かな」なんて言う人もいたけれど、わたしは目いっぱい首を横に振って、また空飛ぶ絨毯を追いかける。

 絨毯には、大勢の人と、へんてこな動物たちが乗っていた。真っ白で鼻の長いゾウのようなもの、皺くちゃなラクダのようなもの、青い毛をしたライオンのようなもの、それからたくさんの鳥たち。人も動物も鳥も、静かに涙を流している。

 絨毯に乗りたい。とっても大きな空飛ぶ絨毯だもの、子供がもう一人乗るくらい、きっと簡単なはず。
 ついに白いゾウのような動物が、わたしに気が付いた。小走りのまま、じっと見つめる。「乗せておやりなさい」と、どこからか声がすると、ゾウはぐぐぐぐと鼻を長く伸ばし、わたしの身体を抱き上げた。絨毯に乗っている感触はなかった。体重がなくなってしまったかのように、ただ浮いていた。そして、なぜか皆と同じように涙を流していた。声も出さずに、しゃくりあげることもなく、涙だけが流れ落ちる。そんなことは、初めてだった。

 乗っている人や動物たちは、みんな中心を向いて涙を流している。そういえば絨毯の真ん中はぽっかりと何もなく、誰もいない。何もないほうを向いて、たくさんの人や動物が涙を流している。ずいぶんおかしな光景だと頭ではわかっているのに、わたしも同じように泣いている。白い花びらが、何もない真ん中にふわりと舞い落ちた。

 御所の脇を通り過ぎ、右へ曲がった。信号をいくつか通り過ぎたところで、お寺に入って行った。境内に入るとゆっくりと下降し、散策しているかのように飛ぶ。大きな塔の側と、丸い小さな池がある庭を通った。桜が咲き始めている。白い花びらは、桜の花だったのだ。もうすぐ、わたしは四年生になる。弟は一年生だ。あ、弟。わたしは弟をどこに置いてきてしまったのだろう。

 突然、急上昇が始まった。寺や桜の木が、次第に小さくなっていく。それでも上がり続け、息が苦しくなり、ついに目の前が真っ暗になった。

 わたしは空調の効いた静かな建物の中にいた。右手でバルコニーのような手すりにしがみついて、左手で弟の手を握っていた。そして、大きな大きな絵を見ていた。見上げても見切れないほど大きな絵の中には、さっきまで傍にいた、ゾウやラクダやライオンのような動物達がいた。空飛ぶ絨毯では何もなかった真ん中には、お釈迦様が横たわっている。
「夢だったのかな」
 と呟くと
「そうではない。あなたは涅槃に立ち会ったのです」
 と声が聞こえた。

 絵の中のゾウの白い鼻が、ぐぐっと伸びた気がした。


※大きな絵:紙本著色仏涅槃図 長谷川等伯筆

サマータイム・サマータイム(空虹桜)<東本願寺前>

空虹桜
ジャンル:恋愛
場所:東本願寺前
    Higashi Hongan-ji Temple

 五条まで地下鉄で出て、ぶらぶら烏丸通を下る。京都をぶらぶら。略して京ぶら。訳してワコール。なこと言ってるの、たぶんわたしだけだけど。
 見習い坊主とわかって付き合ってるけど、修練だからって一週間逢えない、声も聞けなきゃメールもできないってのは、愛しくて切なくて心痛くて、だからお出迎えに来てみた。
若いのに健気だね。自分。好きなんだよ。うん。赤面。
 東本願寺のあたりで烏丸通はなにかを避けるように大きくうねるのだけど、歩道は真っ直ぐ続くから、わたしはモチロン、Go straight!! 合流地点な烏丸七条のバス停そばでいつも待ち合わせ。見習い坊主どもは精進落としとばかりに、すぐそばの某有名餃子チェーンを喰らい、わたしは日除けもなにも無い盆地の晩夏な夕暮れを立ち尽くしてる。
 季節があと二回変わったら、彼は田舎に帰って、この恋は終わるだろう。だって、わたしは彼よりこの街が好きだし、彼の実家は人より牛のが多い、絵に描いたよりもリアルな田舎だから。歳取って、よくわかんないけど高僧? とかになった彼が、静かな田舎で声明あげて、ばーちゃんになったわたしが猫と日向ぼっことかの図は、ある意味人生の勝ち組かもしんない。けど、わたしはそんなの退屈で死んじゃうよ。
 だから、ごめんね。わたしまだもうちょっと学生だし、今から離ればなれの自然消滅狙いです。淋しいけど好きだけど言ってないけど言わないけど。
 烏がカーと啼く。なぜか無性に可笑しくて笑い声が口から溢れる。彼が他の見習い坊主たちと某有名餃子チェーンから出てくる。彼も笑ってる。可愛い。
 「刹那」って仏教用語だといつだったか聞いたことがある。たぶん、わたしと彼の関係はリアルに刹那だ。お釈迦様だって納得だろう。なんとなく。恋愛セツナイなぁ。クレーンゲームのぬいぐるみとかじゃ誤魔化せないぐらいに。うん。凡夫だもの仕方ないよね。

猫の町(松尾佑一)<一乗寺築田町>

松尾佑一
ジャンル:SF・ファ ンタジー
場所:一乗寺築田町
    Ichijyoji

ある山間の宿に泊まっている男が、散歩しているうちに道を見失い、まったく見たこともない町に辿り着く。その町では猫が二足歩行の姿で暮らしているのだという。荻原朔太郎の短編小説に、そんな奇天烈な話がある。
そして京都の一乗寺には、そんな小説のタイトルを冠した奇天烈なカフェがある。


僕は知り合ったばかりの女の子との初めてのデートで、この「猫町」というカフェに行くことにした。そのような変な由来の名前ながら、このカフェはおいしいケーキとしっかりとした味の軽食を出すともっぱらな噂だ。店の入り口はトンネルのように綺麗な植物に覆われた形をして、お洒落なこと極まりない。そして
なにより彼女は猫に似ていた。「君は猫のようだね」と言うと喜ぶのだ。ここに連れて行かねばならない。僕はなんと気の利いた作戦を思いつくのだろう。


僕たちはその日、叡山電鉄に乗り、一乗寺を目指した。叡山電鉄の出町柳駅の改札に現れた彼女のワンピース姿はとびきり可愛らしかったが、赤色をした一両の叡山電車もまたかわいかった。「この電車は君に似ているね」というと「私はこんな長細くはありません」と返ってきた。恋とは難しいものだ。


右手に鮮やかな新緑の比叡山を見ながら、電車はのそのそと進む。一乗寺の風情ある無人駅を降りて、白河通りを目指して東に向かう。この界隈は芸術大学の下宿、ラーメン屋、そして古本屋がぬっちょりと建つ、いわゆる下町である。初めてのデートにこれは少しミステイクかなと思ったが、彼女はこの下町風情に興味を覚えたようだ。道端の苔、「松原牛乳」の目の離れた牛の看板、そして道に寝そべる野良猫を見つけては、写メールを撮ったりしていた。
そう、道にはたくさんの猫がいた。アパートと猫、ラーメン屋と猫、古本屋と猫、猫と猫という具合に。そして猫ばかり見ていた僕たちは、道に迷った。
僕は短編小説の一節を思い出した。もしや本当に猫町に紛れ込んでしまったのでは?行けども行けどもラーメン屋と猫ばかり。僕は彼女に謝る。ごめんよ、僕はダメな男です、ここには猫しかおりません。しかし彼女の姿はそこにはなかった。かわりに僕の足元には一匹の赤いドラネコが座っていた。赤猫は大きな口をあけた。


京都の男(アンデッド)<祇園>

アンデッド
ジャンル:ミステリー・ホラー
場所:祇園
    Gion

 女は眠りにつくと、毎晩同じ夢を見た。それは、京都・祇園で理想の男が現れる幸せな夢だった。
 初めの内はとても幸せな気分だったが、女は次第に悲しみに暮れていく。いつも同じところで必ず夢が途切れて、最後まで見ることが出来ないからだ。
 毎晩同じ男の夢を見ている内に、女は夢の中だけに出てくる男を愛するようになり、忘れることが出来なくなっていた。
 いっそのこと夢を現実にと、東京に住んでいた女は、夢で見る京都の地を自ら旅して回ることにした。
 祇園では花見小路や新橋通りなど、真新しくも夢で見たままの懐かしい印象を与えてくれた。
 京の都は、初めて訪れた次第に女の心を癒やしていく。
 そんなある時、女は遂に夢の男にそっくりな男を見つけた。
 まさか本当にそんなことが起こって、彼に出会えるなんて――
 女は目の前の現実に驚きながらも、勇気を振り絞って男に声をかける。
 女に声を掛けられた男の方も、何か驚いた様子だった。
 よくよく話をしてみると、驚いた事に男の方も毎晩夢で見る女を探して、この祇園に訪れていたのだという。
 その夢に出てくる女があなたにそっくりなのだと苦笑したあと、男はこう付け加えた。


「よかった。これで悪夢から解放される。実は私、結婚しているのです」


 その日から女は、男の夢を見ることはなくなった。

鬼ごっこ(英資 )<錦市場>

英資
ジャンル:ミステリー・ホラー
場所:錦市場
    Nishiki Market

どうやら追いかけていた怪異を見失ってしまった。春先だというのにもう汗だくになっていた。
ダメだ、いったん立ち止まるとふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ膝ががくがく震えた。息も絶え絶えといったところ。体力の衰えは薄々感じていたものの少し走っただけでこのざま、歳はとりたくないものだ。あとはあの少年に任せて、などとくじけそうになっていると店先に並べられた一束290円の九条ネギからひょいと茶色い皮膚をしたものが顔を出す。まるでこちらをからかうように。いや実際からかっているのだろう。慌てて手を伸ばすがぬらぬらとした肌の生き物はわたしの手をすり抜けて再び逃走を始めた。
この歳になって鬼ごっこをする羽目になるとは予想だにしていなかった。錦市場を棒てんぷらなど食いながらぷらぷら散歩していたら目の前を茶色い角の生えた小さな生き物が駆け抜けていった。すぐそのあとに十歳くらいの男の子が泣きそうになりながら走ってきてわたしの前でキョロキョロしている。変な生き物ならあっちに行ったよと食べ掛けの串で方向を指し示してやると「おじさん、小鬼が見えるんですか」と眼を開いて驚愕の表情を見せたのも束の間「一緒に捕まえてください。でないと大変なことに」と両手を合わせて懇願する。それで休日の昼下がり、狭い商店街をこうして鬼ごっこに興じることになったというわけだ。
もっとも鬼ごっこは鬼が追いかける立場のはずでこれでは役割が逆なのだが。
すばしっこい生き物ではあったが苦労の甲斐あってとある漬物屋の前で小鬼を捕まえることができた。小鬼はわたしの手の中できぃきぃと鳴き声をあげている。すぐに追いついてきた男の子は短い呪の言葉を唱えて現世から異界へ送り返した。
ソフトクリームを買ってやり錦天満宮まで歩きながら顛末を聞くとこの男の子は代々伝わる式神使いの家柄なのだそうだ。その練習をしていたら間違って小鬼を召喚してしまったのだという。慌てて異界に送り返そうとしたのだがまごまごしているうちに錦市場に飛び出していってしまったそうだ。
「なるほどな」
わたしはアーケードを見上げた。小鬼がいかにも好みそうな奇妙な雰囲気が天井のガラスから差し込んでいた。赤、水色、黄、赤、水色、黄。この繰り返しで張られたガラスは異界に通じる妖しげな雰囲気を醸し出していた。
この三色ガラスアーケードが途切れた先が錦天満宮だ。男の子と別れわたしは境内に入った。手水舎の手前、右手にある石台の上に乗り、わたしは大きくあくびをし大儀そうに腹ばいに伏した。

甘いお肉でしょっぱいすき焼き<三嶋亭>


ジャンル:家族愛・色恋
場所:三嶋亭
    Mishima Tei

「六年生だから十二歳」
「ああ、一番大人がイメージする『子ども』像とのギャップが激しい歳頃だ」
 まだ二人の距離というか間合いを測ってた頃で、そんな時期にすき焼きってのも恥ずかしいことこの上ないけど、ちょっとした臨時収入があったりとかで、若さと相まって、まぁその、見栄張ったわけだ。
「ええ。だから、平日なのに学校休まされて、一日ずっと父に連れ回されたりしたら、勘づいちゃうじゃないですか」
「だろうね。で。それって最後まで俺が聞いていい話?」
「ダメな話ならしません」
 百点満点ではないけれど、合格点には達していたので、この恋はそう悪い想い出にはならないだろう。なんて、上から目線で続きを促した。実際、こうしてお前に喋ってるわけだから悪い想い出じゃないわけで、若かったあの頃でも、そう間違った価値判断をしていたわけじゃないよな。俺。
「寺町通に三嶋亭って有名なお店があって、お値段も敷居もすんごい高いんですけど」
「名前からして高そうだもの」
「ええ。わざわざ仲居さんでいいのかな? が、お肉の焼き方から食べ頃までレクチャして、取り分けてくれるんですよ。小学生相手でも」
「貧乏には想像つかんなぁ」
「わたしだって、後にも先にもあの時一回キリです。でも、あの時より美味しいお肉って食べたこと無いなぁ」
 一息つくように彼女がコーヒーを飲んで、ここがイノダコーヒーだったら様になったんだけど違くて、申し訳程度に俺もコーヒーっぽい液体を飲んで、そして、覚悟したわけだ。「口の中に広がってく甘味を意識した隙に融けて無くなっちゃうぐらい柔らかくて。ホントあっと言う間に自分の分食べ終わっちゃって、そしたら最後の一枚を父がくれて、『いいパパだったかなぁ』って」
 そこで泣き崩れられたらもう勝てないじゃん。そんなの。絶対。だから、お前が彼女と結婚するってスゲェと思うし、ホント……おめでとう。

ステイヤーズ・ブルース<京都競馬場>


ジャンル:青春
場所:京都競馬場
    KYOTO RACE COURSE

 第3コーナの上り坂を外からまくっていく黒鹿毛に目を奪われた。第4コーナに差し掛かるあたりで先頭に立ち、勢いのままに最後の直線を向いた。

 昔の名前で出ています。的な“かつて”の名馬と、いつの間にか自分を重ね合わせていた。

 時代は、大きな地震としょーもない嘘つきテロリストどもが、良くも悪くも腐った秩序をぶっ壊したあたりで、まんまと余波に巻き込まれた俺は、ヤツみたいに昔の名前があるわけでもないのに、俺だって。俺だって! みたいな冴えない衝動を押さえようともせず、殺気だった人混みに、ゴール板目掛け突撃した。

 淀3200m外回りは最後の直線が長い。にもかかわらずヤツは自ら先に動いて、G1馬のプライドを見せつけていた。10万大観衆に、他の17頭に。俺に。

 どいつもこいつも、雁首揃えてクソ冴えない面で叫んでた。見えてないのに、俺も叫んでた。叫ばざるをえなかった。叫んでる間はたしかに人間だった。生きていた。

 目の前の人壁を押し退け殴られ外ラチにたどり着いたら、目の前を黒い塊が飛んで行った。“かつて”の名馬が、自分の意思で勝利を掴みに行ったところで、駄目なものは駄目なんだと、時代とか若さとか勢いとか、そういう流れみたいのには逆らえないんだと、そう思った。勝負の世界に“タラレバ”は無い。自分が見たものを信じるなら結果は明白だ。けれど、もしこのまま先頭で駆け抜けていたのなら……

 後付けで、言葉にするならそんなようなこと。引っくるめて、言葉にして、叫んでたのは

「ライスシャワー!」



 そのあとの話は、改めて語り直す必要は無いだろう。ゴール板前で16cm残っていたことも、ファン投票で1位になったからと無理を押して出走した一月後の淀で、ヤツが大好きだった淀で、第4コーナの露に消えたことも、的場の最敬礼も、俺が語るには有名すぎる。

「偉大な物語」を語る資格、俺には無い。けど、俺はたったの1レースから、ヤツの走りから、生き方めいたモノを学んで、なんとか今日まで生き延びている。ヤツがドラマチックに死んだこととは無関係にだ。大事なのは、あの時淀で叫んだ名前であり、叫んだ事実だから。

 あの年からずっと、初夏には淀のスタンドで3200mを観戦することにしている。おかげで話したい想い出はたくさんできたけど、ひとつだけなら、いつもいつでも俺はこの話をする。ヤツの語り部として。

松茸の取持った縁<清閑寺>

坂井 久光
ジャンル:
場所:清閑寺
    Seikan-ji Temple

戦前の昭和十六年頃の話である。東山の名刹清閑寺と清水寺との通りを平安女学院の二年生の春野由里が歩いていると街路の赤松の根元に一本の松茸の立派なつぼみが生えているのを見付けた。

丁度その頃、清水寺を参詣して清閑寺への道を辿る三高の二年生の竹中雪雄が散歩してやって来た。見ると前の松の木に一本の松茸が生えているではないか。

その頃は松茸が現在程少くなく、沢山とれたが、街中で生えていることは滅多になく、珍しいことで、これを若い乙女が手にとって嬉しそうにしているのを見て大変驚いた。

思わず彼は「やあ、珍しいこんなところに立派な松茸が生えるなんて」と云った。

春野はつぼみの良型の松茸を手にしていてそれを雪雄に見付けられた。かがんで手にしていた松茸を握っていて思わず顔を赫らめていた。

声の主を見ると三高の帽子をかむった青年の爽やかな笑顔があった。

「私は三高二年生の竹内雪雄です」と云うと「私は平安女学院二年生の春野由里」と答え、お互に打融けて清水寺から霊山観音を通って祇園社へ行き、散歩し乍らお互にカレヂライフや学校の活動に就いて話合った。

雪雄は「明後日が時代祭りだが一緒に見物しないか」と云うと由里も「嬉しい。何処で待合すの」と答へ、蛤門で待合すことにした。

十月二二日秋晴の日に全国から集まった大群衆の中を、ピーヒヨロドンドンの笛や太鼓の囃で、山国勤皇隊を先頭に錦の御旗をかかげて行進し、江戸時代・伏見桃山時代・鎌倉時代と武者行列・騎馬の武将の行列が続き、平安時代の御所車に、十二単の女官や公達の時代衣装に観客一同が感動して祭が最高潮に達し、遠来の観光客も来てよかったの感が強く、地元の人達も京に生まれ住んだ幸に感謝し、普通では見られぬ光景が、タイム・スリップして見られたことを皆喜んでいた。

二人の交際も深まったが、第二次大戦が起り、雪雄は勤労動員で軍事工場へ、由里も黒髪に鉢巻をして、軍事工場で働くことになり、その後雪雄は国の為、父母兄弟に代り、米英に向かって死を覚悟して予備学校の試験を受け合格して、昭和二十年知覧飛行場から、片道燃料で沖縄の米軍へ迎ったが途中事故で、吐咖唎列島の前島で不時着し、助かり無事生還し、由里と結ばれることとなった。

人里離れて<直指庵>

楠沢朱泉
ジャンル:現代
場所:直指庵
    Jikishi-an

 京都で過ごした学生時代、私は一人になりたくなると、よく直指庵を訪ねていた。
 最初に行こうと思ったきっかけは簡単なことだ。

 テレビドラマでよく使われるからと大覚寺に行ってみたかった。
ところが、京都中心部からはやや離れていて、周りに有名な観光名所が無かった。
ふと、地図を見た。
大覚寺に比べれば本当に小さなところだったけれど、皆が知らないようなところに行くのが本当の通なのだと、実に素人考えがよぎった。

 京都にありがちな作り上げられた庭園ではなく、背後の山と一体化し程よく手入れされた庭。
地面を真っ赤に覆い尽くす紅葉。
観光客も少なく、まず修学旅行生は来ない。
落ち着いた雰囲気。
私は一瞬で気に入った。

 しかし、それだけではなかった。

 そこには小さな建物からは想像できない大きな世界が広がっていた。
眼をつぶると私は何にでもなれた。
庭を眺める私は俳人だった。
静かな空気をどのように言葉で表現するかに頭を悩ませていた。
畳に正座して、過去の観光客が書き散らした「想い出草」ノートを眺める私は引退した教師であった。
心の中で一人ひとりに声をかけていく。
畳に寝転んで天井ばかりを見つめる私は世捨て人だった。
世間のしがらみに疲れ、妻と子を捨て誰もいない山里に逃げてきた。

 銀婚式を迎えた熟年夫婦、武士を支える妻、田舎の祖父母宅に初めて一人で来た小学生等など。
私は時間を忘れて様々な人生を垣間見た。
気付くと一人になりたいはずの私の周りをたくさんの人々が囲んでいた。
すると今の自分の悩みが大したことのないように思えてくるのである。

 あれから十年以上たった今は、生活するのに必死であのころほど悩まなくなったし、引っ越しをして簡単に訪れることもできなくなってしまった。
でも、今でも辛いことがあると、私は大学時代に戻り、大覚寺の裏を通ってあの小さな庵に向かって歩き出すのだ。


夢を叶える場所<鞍馬山の木の根道>

明石鯛
ジャンル:ショートショート
場所:鞍馬山の木の根道
    The Kinone Street

「いよいよプロ野球選手の自主トレがはじまっています。
本日は、名門チームのライトで四番、内藤選手にお話をうかがいます。
内藤さん。自主トレは、今年も、鞍馬山でスタートですね」
「そ~やねぇ。ま、毎年のことやからね」
「この鞍馬山にこだわる理由って、何かあるんですか?」
「オレにとっちゃ、聖地やからね、ここは」
「え、聖地といいますと?」

 内藤の頭の中では、リトルリーグ時代に、鞍馬山の根道につれてこられたときのことが、浮かぶ。監督の声が、いまでもくっきりと再生されるのだ。
━━いいか、ここは夢を叶える場所だ。源義経って知ってるか? 鎌倉幕府をひらいた源頼朝の弟だ。その義経が子供のころ、牛若丸と呼ばれていた。その牛若丸はここ鞍馬山に預けられて厳しい修行を行っていたんだ。何のためだと思う? 夢だよう。夢のためだ。宿敵の平家をたおす、というでっかい夢だ。この木の根が浮き上がってボコボコしている道を見ろ。ここで牛若丸は、自由自在に跳躍する訓練をしたんだ。訓練は地道だぞぉ。でもそれが、やがて船から船へと跳び渡って敵を討つ<八槽飛び>の活躍につながったのだぁ・・。訓練せずにいきなりプロ野球選手になった人はいない。夢に向かって努力をつづけた人だけが、プロになれるんだということをしっかり頭に刻み込んでおけ!━━
 その時、内藤は、確かに牛若丸の幻影を見た。白い衣を身にまとった牛若丸が、身軽に高々とジャンプするところを。それ以来、冬場になると、内藤は鞍馬山にきた。そして、牛若丸に、新たな大きな夢の実現を誓ってきたのだ。それがいまの自分をつくってきたと信じている。

「ここに来ると、なんだか励まされるんですわ。がんばってやらにゃいかん、っていう気が湧き出てくるんやね」
 あいかわらずアナウンサーはトンチンカンな質問を繰り返している。
 僕は、テレビ画面の、内藤の背後に、白い影が舞うのを、確かに、見た。

桜<平野神社>

黒衣
ジャンル:人情
場所:平野神社
    hirano-jinja Shrine

 牧野の表情は穏やかだった。
 「ちょっと、寄り道してもよろしいでしょうか」と、一回り下の自分にも敬語で話し掛け、神戸から京都、京都から東京、東京から仙台というルートで指定券申込書の空欄を埋めた。
 最後なのだ、途中下車一回くらいのロスなら経理も見逃してくれるだろう。自分は何も言わず、同じルートで東京までの切符を自動券売機で買った。
 早期退職という名目のリストラで辞めていく人間を送るのは、人事部に抜擢されて以来、慣らされている。けれど、四十過ぎという、まだ先のある歳で社に放擲される人間を見るのは初めてだった。本社まで上り詰めたところで神戸へ飛ばされ、彼なりの奮戦を経た後の討ち死に。既に夫人は荷物をまとめて二人の故郷へ帰ったという。とはいえ、特に感慨もない。彼の「護送」は京都で終わり、自分は本社で所用を片付けるのみだ。子供ではあるまいし、東北新幹線は独りで乗ってもらう。
 京都まで牧野は無口だった。自分の後任のことなど話さず、いい天気だなあ、とか、まだ夜はコートがいりますね、とか、他愛もないことを繰り返し、買ってやった缶ビールにも手を出さなかった。京都駅に着くと、牧野の言う神社を携帯のナビサイトで調べ、バスに乗った。バスは淡々と夕刻の京都を走り、平野神社最寄りのバス停で自分達を降ろした。
 既に人々が灯の点いた桜の天井の下を行き交い、そこかしこに簡易な座敷を築いた店では、鍋を囲んで酌み交わすざわめきが響いていた。
 「歩きませんか」
 変わらない様子で牧野は言う。慣れた様子で三年前のロックバンドの歌を口ずさむ。桜と恋を歌った歌だ。
 舞台効果めいた桜色の下を、自分達は歩く。花見の生き生きとした乱雑さが、却って寂しかった。
 牧野もそう思ったのだろうか。歩調は落とさず、見上げながら呟いた。
 「ここの桜も、もう見ることはないのかなぁ」
 東京駅で牧野と別れた。最後まで牧野は柔和で、静かに歩いて改札の向こうへ消えた。

終点は恋のはじまり<三条大橋/鴨川>

あゆひ
ジャンル:恋愛
場所:三条大橋/鴨川
    Sanjō Ōhashi

紅葉の季節の京都は、風が冷たい。
夜ももう九時を過ぎ、気温がぐっと下がってきた。
「寒くない?」
野口くんが聞いてきた。
さっきから、同じことをもう何度も聞かれている。
私のことを気遣ってくれているのだと思うと、なんだかこそばゆい。
「大丈夫。京都は寒いと思って、あったかくしてきたから」
そう私が答えると、
「そうだよなあ」
野口くんはなぜか首をすくめ、前を向いて歩きはじめた。

私と野口くんが歩いているのは、三条大橋を降りてすぐの鴨川の土手。
今日は一日、二人で京都を見て歩いた。
食事も終わり、あとは電車に乗って帰るだけという時、野口くんが最後に鴨川沿いの散歩に誘ってくれた。
三条大橋の西橋詰には、東海道中膝栗毛に登場する、弥次さん喜多さんの像がある。
ここ三条大橋は、江戸から京へと続く東海道五十三次の終点なのだ。
多くの人が長い旅を終えた場所で、私たちの日帰り京都旅行も終わりを迎えようとしていた。

野口くんは会社の同期で、一緒に仕事をしてもう半年以上がたつ。
どちらかというと無口だけど、もくもくと仕事をこなす、誠実な人だ。
多くを語らないけど、口を開けば言葉に重みがあるタイプで、皆から一目置かれている。
会議ではじっと黙って皆の意見を聞いた後、最後に一言良策を提案したりする。

今まで野口くんと特に仲が良いわけではなかったけど、偶然お昼休みに見ていたテレビで京都の紅葉が映ったのを綺麗と私が言ったら、一緒に行きませんかと誘われた。
それがあまりにも自然だったので、お誘いを受けて京都へやってきた。
京都を歩いていても、多くの言葉を交わしたわけではないけれど、間がもたないというのではなくて、二人の間には不思議と心地よい雰囲気が漂っていた。

「寒くない?」
野口くんはもう何度目かの同じ質問をした。
ふと見れば、野口くんは不自然に手をポケットから出したり入れたりをくり返している。
私はあることに気付いて、胸がとくんと鳴った。
無口な野口くんが、何度も同じことを言うのには、意味があったのではないか、と。
「うん、寒くなってきたかも」
私は恥ずかしさをこらえながらつぶやいた。
「じゃあ、手をつなごっか」
野口くんはあさっての方角を見ながら、手を差し出してきた。
私はゆっくりと、その手を握った。
あったかくて、男の人らしい大きな手。
甘酸っぱい心地が、私の全身をかけめぐった。
「よかったら、また一緒に出かけよう」
彼の照れた横顔は、会社では見たことのない表情だった。
この人のことをもっと知りたい。
そう思ったから、私はそっとうなずいた。
旅の終点で、なにかの始まりの予感がした。

ウキフネ<宇治川>

まさみ
ジャンル:恋愛?
場所:宇治川
    Uji River

 車が走り出すと係長は無言になった、予告通りに。
「柴田君の運転の邪魔したくないし。ナビは必要に応
じてするけど」
そういうわけで、かれこれ1時間、車内はFM局のラ
ジオが軽く流れるだけ。運転の合間に、俺は何十回も
何故、係長と宇治なのか、の問いを繰り返していた。
本当に、何故なんだろう。二日前の晩、事務所で二人
で残業していて、気がついたら自販機のコーヒーと煙
草で一緒に休憩していて、更に気がついたら、話はウ
キフネになっていた。俺が知らないと言うと、係長は
軽く頷いて、では土曜に宇治に行こう、と言ったのだ。
普段からそんなに親しくもない関係だから、本気にし
ていなかったのに、昨日の帰り際、念押しされた。さ
れたから、今、こうしているのだが、しかし、何故、
俺が、貴重な休日を、係長と・・・。
「えーと、そろそろ高速、終いですね。宇治西で下り
るんすか、東ですか?」
「西で下りて。そのまま、東に進めば川があるから。
そこに、浮舟は身投げしたらしいよ。そのあたり、ブ
ラつこか」
 ブラつきながら、係長は男A男Bの二人に愛されて
悩んだ女、浮舟の話をした。
「いろんな人が、派手で強引な男Bに惹かれてたって
言うんやけど、そいつ、ちゃらんぽらんでねえ」
「知人ですか?」
「ま、いつの時代も似たのは、おるわな」
 妙に優しい声で、係長は言った。係長にも、浮舟問
題があるのか、それで今日、ここに来たのか、と俺は
ふと思い当たった。まさか。係長に限って。
「係長、移動しますか、ちょっと、風出てきましたよ」
 黙っていれば、いつまでも宇治川の川面を見つめて
いそうだ。
「飽きた?我慢のできんヤツやなあ、柴田君は。出世
できへんぞ」
「出世なんか、いいっすよ。それより、係長、その、
ウキフネには、男Cが現れるんっすか?」
「ううん。命は助かったけど、もう、恋愛とかには懲り
たんやろうねえ、尼になるねん」
 サイアク。係長にはあるまじき選択肢だ。
「えーと、ソレ、物語ですから、係長。絶対、Cが現れ
ますから、あきらめんといて下さいね」

 俺は、今もあの宇治川を見つめていた係長の横顔を覚え
ている。ウキフネという名前とともに。

京の再会<南禅寺>

ふじみだい
ジャンル:友情
場所:南禅寺
    Nanzen-ji Temple

大学の講義を抜け出して、みんなで南禅寺に行った。誰が言い出したかわからないけど、昼休みにそういう話題がでた。さっそく午後の講義が犠牲になるところが、僕らっぽくてよかった。

みんなわかっていたんだ。これで最後の紅葉狩りだと。今、大学4回生で、この秋を越えると全員バラバラになってしまう。だからこうして、京都での思い出づくりを急ピッチで進めている。

南禅寺は相変わらずの洗練された美しさで、あたりを流れる水と空気が僕らの心をやさしく包みこんでくれた。紅葉、水道橋、庭園など、初めてここにきたときから、僕の中で「京都」の代名詞だった。

「そう言えば、去年もここにきたよな」
メンバーの誰かが言った。うん、うんとみんなで頷いている。

出身のみんな違う僕らが、京都に集まって、こうして同じ時を過ごしている。それぞれの夢を語り、それぞれのクセを笑って、みんなでここまで来た。ゆっくりと時間をかけて、僕らは紅葉のように成熟した大人になれただろうか。社会人まであと一歩というところで、僕らは期待と不安の中にいた。

南禅寺の奥に向かって進み、水道橋を抜けて普段いかないような道に、僕らは足を進めた。大学4回生にして、最後に冒険してみたかったのだ。木々に囲まれた自然豊かな道を抜けると水力発電所にでた。何本もの巨大なパイプが右往左往する不思議な空間だった。さらに歩みを進めると、「あっ」と僕は思わず声を漏らした。

目の前には、三条蹴上のインクラインがあった。インクラインは春になると桜の名所で、僕らが1回生のときにここで花見をして、お互い親しくなった思い出の地だった。

あのとき、みんな照れながら自己紹介をして、新しく始まる大学生活を桜の下で迎えた。あれから、いろんなことがあった。みんなもそれを噛みしめている様子だった。1回生の時の僕らと4回生の今の僕らがつながった。

同時に、密度の濃い4年間が過ぎさってしまったことに対する寂しさが押し寄せてきた。4年間は本当にあっという間だった。あの時から少しは成長できただろうか。

僕は言った。
「卒業して、別々になるけど、またここへ来よう。たとえ結婚していても、妻や夫を連れて来い。約束だ」
みんな頷いて、僕らは輪になった。「京都バンザーイ!」僕らの手が天に伸びた。

南禅寺に戻って、置いていた自転車に乗った。
京都での青春を彩った地に別れを告げる。

「それじゃ、またここで」

僕らは、別々の道を歩み始めた。

町屋でイタリアン<美郷>

ジェシカ
ジャンル:レストラン
場所:美郷
    misato

 昔主人が子供の頃に住んでいた京町屋が、今やおしゃれなイタリアンレストランになっています。
 
 表の部屋から、中庭に面した奥の部屋まで、続きでダイニングとなり、おしゃれな音楽の流れる素敵な空間となっています。

 以前は炉が切られていたという表の茶室のあたりには、大きなワインセラーが置かれ、ヨーロッパ各地からやってきたワインが頭をのぞかせます。

 ある時、お町内の集まりの後、そのまま帰るのも何なので、そのイタリアンレストランでお酒を飲む事にしました。

 すると、いつもは使っていない二階の奥の部屋に通されました。バー用に立派なソファーが置かれていましたが、主人によると、そこは勉強部屋だったそうです。無事に受験を突破して東京の大学に行くまで使っていた部屋です。

 注文していたワインが運ばれてきました。びっくりする位大きなグラスに、真紅の液体が揺れています。また、薄暗い部屋にともされた蝋燭が光を放っています。

 窓から外に目をやると、庭には、ライトアップされた灯篭が見えます。
 そして、横手には、かつて義母が洗濯物を干していたであろう、物置が。
 今は何もない真っ暗な空間ですが、もし、そこに立ったなら、そのままタイムトリップして京の空を飛んでいけそうな、そんな気がしました。

魂が還るには<宇治川 中州>

原 瑚都奈
ジャンル:ライトノベル
場所:宇治川 中州
    Uji River

 京阪電車の宇治駅を出て横断歩道を渡ると、川沿いに観光に重きを置いた小道がある。そこを歩きながら、私は幼なじみである裕樹の十六歳にしては大きい後ろ姿を睨み付け、口をとがらせた。
「ね、ちょっと、待ってよ! 抹茶アイスがあるよ、茶だんごもあるのよ? ね、食べようよぉ!」
 ついてきて欲しいところがある。そう電話があったのは今日の朝のこと。付き合っているわけでもないのに何だろう、と思いながらも、暇だったので二つ返事でオーケーした。
 だが、ついて来たはいいものの、この様子はおかしい。食いしん坊のくせに、お茶屋に寄る気配がない。それに待ち合わせしたときもそうだ。「ちと、遅くはないか」と言われたし、「女、宇治へ行くぞ」とも言われた。電車の中でも私に向かっては何も言わないのに、一人で「だまってろ」とか「拙者は」とかぶつぶつ呟いているし……。変だ。幽霊でも乗り移ってるんじゃなかろうか。
 数分そのまま歩き、宇治神社の前まできた。大きな赤い鳥居の横には可愛い七五三参りの親子連れ。小さな女の子が、着飾っておしゃまにポーズを取っている。それに気をとられていたら、裕樹の背中にぶつかった。
「ちょっと、なんで立ち止まるの?」
 低い鼻がもっと低くなってしまった気がして、私は鼻を押さえる。見上げると、彼は宇治川の方を眩しそうに見ていて……突然、走り出した。
「……ウソぉ……」
 ここ数年、体育のマラソン以外で彼が走っている姿を見たことがない私は、ぽかんと口をあけた。朱色で彩られた、中州へと続く橋を彼は渡り始める。狭くはないが広くもない橋の上、観光客が慌てて彼に道を譲る。悲鳴と怒号が飛び交う。
 このまま帰ってやろうか。そう、思わないこともなかったけれど。幼なじみのよしみで私は後に続いてやった。彼は、橋を渡ってすぐ右手にある石碑の前で蹲っていた。彼に押しのけられた人は怒りを露わにしながらも、そこで号泣する彼に何も言うことができずに帰って行く。人が在る程度近寄らなくなると、裕樹もだんだんと泣きやんだようだ。恐る恐る近づくと、彼は突然こちらを振り向いた。
「……私は、此処に来たかったのだ……。女、それに裕樹よ……ありがとう……」
 その言葉が私の耳に届くと同時に裕樹の体がビクンと震え、崩れ落ちる。
 ……意味が、わからない。
 残されたのは、涙で頬を濡らしながらも微笑みをたたえた彼と、呆然と彼を見つめる私、そして石碑。「宇治川先陣之碑」と書かれたその石を見て、私は「あぁ」と声を発した。
 京都には、未だ眠ることのない魂が在る。いや、幽霊といった方が正しいのだろうか。何百も何千もあるそれらの中の一つが、彼に助けを求めたのだろう。はた迷惑な話だ。そう言えば、この前ユッコも体験したって言ってたっけ。
「……こうなってくると、私の番も近いかな」

タワー<京都タワー>

三里 顕
ジャンル:SF・ファンタジー
場所:京都タワー
    Ktoto Tower

「安全の為に、影をお取り下さい」
 エレベーターガールが言う。しかたがないので僕は靴べらを使って、足下から続く影を取り去った。

 初めての街で、駅から出た僕は視界にタワーを見つけてしまい「まずこの街を上から見てやろう」と思ったのだった。タワーの根元のビルはお土産品を色とりどりに備えていたが、売り場をかいくぐって展望室の受付に向かった。大人並・770円。大人特上・1000円。
 特上って何だ?
 受付のおばさ……お姉さんに尋ねた。曰く「特上は特上です。並より上質です」。意味がわからなかったが、1000円ならバカ高いわけでもない。土産話のネタになれば、と特上のチケットを買った。

 僕から離れてしまった僕の影はなんだかとても寂しそうにしていたので、コンペイトウの袋を渡した。「全部食べてしまってもいいから」と。コンペイトウは僕の大好物だ。
 スーツケースは影が見ておいてくれるらしい。身一つでエレベーターに乗る。

 四角い箱の中、エレベーターガールと僕の二人きり。エレベーターガールが何も言わないので、僕はじっと階数表示のパネルを見上げる。

 展望室に着いてエレベーターの扉が開くと、目の前に女の人が立っていた。エレベーターガールと同じ制服を着ている。
「特上です」
 エレベーターガールが目の前の展望ガールに言う。展望ガールは深くお辞儀をして、
「こちらへどうぞ」
と言った。僕は従う。あ、展望ガールにも影がない。そんなことを思いながら展望ガールの後を追う。
 展望室からの眺めは素晴らしかった。歩きながら横を向いただけなんだけど。古都の街だと思っていたが、眼下に広がるのはビル群だった。

「こちらです」
 窓も何もない壁に案内された。換気扇がある。どこが特上なんだよ。と、展望ガールが換気扇のヒモを引く。途端に吸い上げられてしまう、上に。ビューって、まず足が床から離れ、髪の毛が吸い込まれ、気付くと、空中。展望室のもっと上? ってか、外?! まだまだ上昇し、どんどんビルが小さくなる。タワーさえ小さくなる。もっともっと上がり、何もかもが小さくなって、僕は気が遠くなってきちゃって、後は覚えてないんだ。

 正気を取り戻したとき、僕はタクシーで今夜泊まるホテルに向かっていて、影はちゃんとあって、けれど、コンペイトウが袋だけになっていた。夢だったのか本当だったのかわからないから、土産話にもならない。

彼はわたしを見ている<京都芸術センター>

永子
ジャンル:短編
場所:京都芸術センター
    Kyoto Art Center

彼がわたしを見ている。
こちらを向いてはいない。ずっと手元の本に目を落としている。けど、そんなもの見てはいない。
わたしは知ってる。そこには何も書かれていないのだ。

はじめて見たのはギャラリーに来たときだった。
しっかりした石柱の門を入って石畳の道を進み、明るい玄関を入る。
ここは昔、学校だった。こどもの数が減って学校でいる必要がなくなると芸術のための場所になった(自分を「芸術」というひとはちょっと胡散臭いと思う)。
ゲートボールをやっているのを右手に見ながら、向かいの校舎まで校庭の縁を歩く。知らない場所なのになつかしい。ここはたぶん、みんなになつかしい場所。

重い鉄のドアを引くと、中はぼんやりとくらい。ドアを閉めるとシンとする。そこがギャラリー。
部屋の端に木片で組み上げられたタワーがあった。キャンプファイアーの薪みたいだ。反対側にはアクリル板でできた同じ形のタワーがある。内側からぼんやりと光っている。これは厳密な数学的法則に従って組まれている、らしい。置いてあった説明書きを、校庭の縁を歩きながら読む。本館まで戻ってくる。

校舎の床は木目細工。階段の真ん中は磨り減っていて、右の端っこに足を乗せてみる。手すりにも瀟洒な細工。そのまま、一番上まであがってみる。下には何人かのひとがいたけれど、二階、三階にはだれもいない。黒い木の引き戸が黙って並んでいる、休日の学校。立入禁止、とは書かれていなかった。でも忍び込んだみたいで、かすかなうしろめたさが、楽しい。踊場の壁にアーチ型の大きな硝子窓。その硝子に手をふれてから見つからないように急いで降りた。そのまま玄関を出たところで本を読んでいた彼と目があった、気がした。彼がくすっと笑った気がした。わけもなく赤面して、目を伏せて通り過ぎた。

今日も門を入ったところからわたしは彼を見ている。彼がわたしを見ている。気づいていないふりをして通り過ぎる。彼も知らん顔をしている。

教室を改装した喫茶店でお茶を飲んでいると、隣の席のおばさんたちが彼の噂をしていた。

―昔の小学校ってどこにでもあれがあったわよね。ほら、薪背負って本読んでる…

わかってないなあ。
彼はここにしかいない。学校はどこにでもあるけど、同じ学校なんてひとつもないんだ。

帰りに見ると、彼が手にしている本の表一面に一円玉が並べられていた。
ちっ、ライバルだ。彼を気にしてるひとがいる。

きょうとゆめのあいだ<大徳寺>

イブスキ・シンイチロウ
ジャンル:ファンタジー・短編
場所:大徳寺
    Daitokuji Temple

 猫がにゃあと鳴いた。不思議な一日だったと思う。

「むかしは、たくさん来てたのよ」

 そうツキコさんは言ったが、いままで客がいたところを見たことがない。

 京都の寒さがやってくる前に、大徳寺通りを抜けて西陣のその居酒屋までよく歩いて行った。辺りには糸問屋や織屋が軒を連ね、雅な雰囲気でとても気に入っている。秋が近付き、外の空気は生ぬるかった。

「そういえば、珍しい地酒が手に入ったわ」

 ツキコさんはおもむろに奥の戸棚から取り出し、カウンターにことっと置いた。透き通った緑色の瓶は細身を帯びており、ラベルには伏見名産と書かれていた。
 これがまた呑みやすく、揚げたての美味い天ぷらとも相性がいい。そのうちひどく酔ってしまったので

「今日はもう、この辺にしておきます」

 動作がややゆっくりになりながらお会計を済ませると、ツキコさんはなぜか帰り際までにやにやしていた。自宅までは、大徳寺の裏道から抜けていくことにした。風に当たれば酔いも冷めるだろうと思った。

 昼間は観光客で溢れてざわめいているが、日が落ちるとやけに薄暗く、鬱蒼とした竹林の連なりが夜の静けさを一層引き立てていた。なんとなくいつもより空気が澄んでいたが、気にもとめずふらふらと歩いた。

 目の前がぐるぐるして、思ったよりも酔いがまわっていることに気が付いた頃、

「あら」

 と、猫は言った。まるで以前どこかで会ったかのような態度だった。夢の続きを見ようとするかのように、私は何度も瞬きをした。

「どうやら、女の勘ってものは当たるみたいね」と続け、右手で耳の後ろを掻いてみせた。猫の目はきらりと輝き、私をじっと見つめている。

「あなたのことは、よく聞かされていてね。お酒があまり呑めないことや、魚の天ぷらの尻尾が好きなこととか、まるで猫みたいって話してたわ」

 それからね、と猫は喋り続けた。束の間の興奮に、どこか幸せを感じる。そうだ、肝心なことを聞き忘れていたので、君は、と訊ねると

「かれこれこっちに来て三年ぐらいになるの。京都は落ち着いた町並みだと聞いてね」

 そう言うと、しばらくの間猫の身の上話が続いた。どうやら、すっかり京都が気に入っているらしく、最近は石畳の上でごろごろするのが日課らしい。

「この前ね、猫じゃらしで遊んでくれた人がいたの。あのふわふわとした動き、粒々の感触、なんでこうも魅力的なのかしら」

 あの、と私はまだ会話を続けようとしたが、猫はどこかへ消えてしまった。呆気ないほど、あっという間の出来事だった。

 次の日、ツキコさんに報告しようと出掛けると、猫がにゃあと寄ってきたので撫でてあげた。陽射しは暖かく、やわらかい光が背中を照らした。


おしまい

京都の抜け雀<京都市役所>

ずぼんしたはくのすけ
ジャンル:昔話
場所:京都市役所
    Kyoto City Hall

「おっかあ面目ない。あの客無一文やった」

 階段を下りてきた又八は、勘定場に辿り着くと申し訳

なさそうにそう言った。宿帳を捲っていた女将の手が止

まり又八と目を合わす。

「だから言ったじゃないか、あの顔は宿賃持ってる顔じ

ゃないって」

 宿屋の女将は大袈裟にため息をつきながら、それでも

京女の威厳だけは崩すまいと、静かにお茶をすすった。

「私は一目見たときからそうじゃないかと。襤褸布のよ

うな着物。八つ橋に鼻緒つけただけみたいなペラペラな

草履。あんなかっこで旅してるのが、たんまり路銀なん

か持ってるわきゃないってね。それをあんたって人

は……」

 湯飲みの口から宿帳に一瞬目を移し女将は顔を顰め

た。

「十日もただで泊めた挙句、毎日毎日一升五合づつ酒振

舞って、今更無一文でしたああそうですかって」

「責めるなよ。俺だってああそうですかって済ましてき

たわけじゃないんだから」

「無一文なんでしょ。着物だって襤褸だし金めの荷物だ

って持ってる様子もないし、どおすんの」

「それがね、あの客どうも偉い絵師らしいんだ。お前も

聞いたことあるだろ『抜けすずめ』の話。あれを描いた

絵師らしいんだ」

「宿賃の換わりに描いて貰った雀の絵が、あんまり上手

く描けてるもんだから毎朝屏風から抜け出して客寄せし

てるって評判の小田原のあれかい?」

「そう。でな、うちでも宿賃代わりに何か描くと。何を

描いたらいいか、小田原と一緒で雀じゃ芸がないからと

おっしゃてらっしゃる。ほれ、こないだ無一文で泊まっ

た表具屋が宿賃の変わりに張り替えていったついたてが

あったろ。あれに描いて貰お思って」

「あんた無一文にえらい縁があるなあ」

「俺は学がないから思い浮かばなくてな。こうしてお前

に相談に降りて来たというわけだ」

 女将は無言で勘定場の引き出しから半紙を取り出し、

さらさらっと何か字を書き、それを又八に渡して言っ

た。


「これを書いてもらいな」

 まだ字の読める者も少ない時代。又八にはそれが読め

なかったが、高名な絵師なら読める筈だと言う女将の言

葉に圧され又八はその紙を持って絵師の元へ戻った。



 そうして描かれたついたては、精華の中に慎み深さを

も漂わせ、見る者に感銘を与える一品。やがて京の町じ

ゅうで評判になり、一目見ようと宿屋はその後たいそう

繁盛したそうだ。中には真似して同じような物を店先に

飾る宿屋も多く出てきたという。


ついたてにはこう書いてあった。

「一見さんお断り」と。

変わり続けるべきもの<四条通>

NAGISA
ジャンル:恋愛
場所:四条通
    sijo-street

「そもそも景観条例がどうこう言うなら、まずあの尊大ぶった大げさな京都駅からどうにかするべきだと思うね、僕は」
「そう? モダンで素敵な建物だと思ったけど。あなたはあんなもの壊してしまうべきだと言うの?」
「そうじゃない。僕は景観条例の方を問題にしたいんだ。こんな馬鹿げた条例はないよ。意味が無い。そんなに変わらないことを目玉にしたいなら、どうして池田屋跡地をパチンコ屋や居酒屋にすることを許すんだ?」
「町全部をタイムカプセルにしろ、っていうこと?」
「違うんだ。全く逆さ。僕は古いものなんてどんどんぶっ壊しちまえばいいと思ってる。パチンコ屋でも居酒屋でもその後になんでも建てればいい。ただ、心だけを忘れなければいいんだ。そうすれば物事は自ずとあるべき場所へ戻っていく。知ってるか、日本の木造家屋ってのはね、建て直すことを前提にして設計されているんだ。伊勢神宮なんかは二十年に一度建て替えたって言うぜ」
 彼女は箸を動かしながら、黙って僕の話を聞いている。
「いつまでも同じものなんてないんだ。川の流れと同じさ。変わらない努力よりも、より良く変わっていく努力。それが、関係を長続きさせるコツでもあると思うんだ」
 彼女はようやく、僕の話の要点を飲み込んだようだった。
「そうね、わたしたちも変わらなくてはいけないのかもしれないわね」
 そして彼女は左薬指の指輪に目をやった。
「作り変え続けていく。僕らの関係はもっと即物的であるべきだったと思うんだ。そうじゃないか?」
 と僕が目配せすると、
「ええ、その通りだと思うわ。そうね、そこでまず変えるべきだと思うことがあるのだけど」
 と彼女は箸を置き、
「こういう話をもっとロマンチックな場所でできるようにならない? 餃子の王将ではなしに」
 にんにく臭い息とともにそう言った。

嵐山の小猿<嵐山渡月橋>

かいおん
ジャンル:
場所:嵐山渡月橋
    Arashiyama Togetsukyo Bridge

 夜半、観光客の喧騒も途絶え、嵐山渡月橋を静寂が

つつむ。少し雨が降っている。車も通らなくなった頃

に百鬼夜行が現れる。橋の袂に座っている、小猿のコ

ジロウにはそれが見える。幽闇のうごめきを、もう人

間は感知することが出来ない。彼らには妖怪と解され

ているそれは、コジロウには異形の霊獣の行群に見え

る。

 嵐山にはかつて猿山といってサルを放し飼いにして

いた山があり、その観光施設から逃げ出し野生化した

一族の末裔がコジロウであった。彼は一族の中でも一

際、頭脳に秀で物心ついたころから世界の深遠を伺っ

ていた。彼はこの世の理を知りたかった。

 飢えた目をしていたのを気取られたのか、百鬼夜行

の連中がコジロウを横目にニタニタとわらっている。

コジロウの脇の下が、突然痺れた。彼に興味を持った

のか、雷獣が群れからコジロウの脇に来て、しゃがん

でいた。そして半透明の声で言った。

 「おまえの知りたいことは、猩猩が知っている。彼

に聴けばいい」

 猩猩はどこにいるのか?コジロウは問うたが、雷獣

は何も言わず群れに戻り、群れとともに、暁闇に溶け

るように消えていった。雨はいつの間にか止んでいた



 伝説では百年以上生きた猿が猩猩になると云う。神

智を備え、知らぬことはないといわれている。猩猩な

らば天地万物の秘密を全て解しているのだろうか?コ

ジロウは猩猩を捜すために、嵐山から旅に出ることに

した。


醍醐寺の大紅しだれの木霊<醍醐寺>

江戸草一
ジャンル:幻想小説風
場所:醍醐寺
    Daigo-ji Temple

 もう自分の中で忘れてしまった方が良いと思っている思い出。
しかし自分の中のもう一人の自分が、そんな気持ちとは裏腹に決してその思い出を手放そうとしない。
私はこの思い出を、手放すべきか否か悩んだ。
しかし私はこの思い出を手放さず、過去の自分に向き合おうと思った。
今なら向き合える。
私は人間として成長したのだ。
あの五年前の醍醐寺の三宝院の大紅しだれの木霊との約束に。

 四月の初旬、私は醍醐寺にいた。
あの日の天気の事は今でも良く覚えている。
薄曇りの空。
少しそれは私の心の中に似ていた。
それはほんの少しだけ心の中に芽生え始めていた良心の呵責。
しかし自分のやっていた事に対して、本当に心の底からは悪いとは思っていなかった。
そんな私の心をその日の薄曇りの空は良く表していた。
私は三宝院の五部咲きの大紅しだれの前まで来ると何気に足を止めた。
すると私の背後から声を掛ける者がいた。
「あなたの抱えている心の痛み、私の心の痛みと似ているわ」
私はハッとして振り返った。
そこには桜色の着物を着た二十歳前後の美しい女がいた。
女は私は大紅しだれの木霊なの。
言っても信じないでしょうから、私に触れてみて。
私は手を彼女の方に差し出すと、手は女を突き抜けた。
女には実体が無かった。
女は言う。
私は人の心の中を見透かす事が出来るの。
あなた男の人に裏切られたのね。
それも一人や二人じゃない。
私はこの木霊は、全て分かっているんだと思った。
逆なのだ。
裏切ったのは私。
何人もの男に貢がせておいて最後には男を捨ててきた。
なぜこの木霊は、逆の事を言うのだろう。
それはそう私自身で罪の重さに向き合わす為に、あえてそう言ったのだ。
捨てられた者の苦しみに気付けと。
木霊は一枚の桜の花びらを、手の平に置きこう言った。
五年後会いましょう。
この花びらが、私とあなたの出会った証。
そう言い残すと木霊の姿は消えた。
それから五年経った春。
私の手の平に、あの桜の花びらが枯れずにある。
そして改心した私がいる。
私はこの花びらを持って、醍醐寺の大紅しだれの木霊に、今日会いに行こうと思う。

ノスタルジックガール<四条通>


ジャンル:ノスタルジー
場所:四条通
    sijo-street

 突然気配を感じて振り返る。
薄紫色の生地に白い小花が散りばらめられた、見慣れた着物。見上げると、雪のような白い肌の女性が、にっこりと微笑んでいた。
「春子、その着物、アンタにようにおうてるなぁ」
 しかし私はバツが悪くて俯いた。
「お姉ちゃん、勝手に着てごめんなさい……」
 私は、顔が上げられない。
「――ええのよ。それ、春子にあげるわ」
いつもと違う優しい声に驚いて、私は目を見開いた。
「何言うてんの? この赤い着物、お姉ちゃんが一番だいじにしてる着物やろ?」
「うん。せやけど、もうええねん。急に春子にもろて欲しいて思たから」
 そう言った女性は儚く微笑んだ後、突然眉をひそめる。
 そしてゲホゲホと強く咳きこみ、私は驚いて駆け寄ったが女性に手が届かない。女性は、ひとしきり咳をしたあと、苦しそうに目を細めて言った。
「春子。お姉ちゃんの着物……、全部アンタにあげるから大事に着てや――」

「春香ー! それいいやん!におてるで~」
私は鏡の前に立っていた。大判の桜が大胆に描かれた赤い単衣を羽織って。
「あ、うん……ありがとう」
 ぼんやりとしてしまう。鏡に映る大きな桜の模様に心を奪われていた。
「あぁ、ええやないですか。サイズもちょうどいいみたい。いかがいたしましょうか?」
振り返ると、店のお姉さんが私を見て微笑んでいた。
「その着物、アンティークでほんまはもうちょっと値がはるんやけど、少しシミができてるから大分お安くなってるんですよ。素敵でしょう?」
「ほんまや……すっごく安いですね。頂いて帰ります」
「わぁ、嬉しいわぁ。それね、私も実はすごく気に入ってて、なかなか売れへんかったんやけど、あなたが着てくれるなら喜んで手放せそうやわ」
「? なんで私やったらいいんですか?」
不思議に思い問い返す。するとお姉さんも首を傾げた。
「さぁ? なんでやろ。なんかあなたに着て欲しくなったんよ。大事にしてね?」
 お姉さんが着物をたたみながらふわりと笑う。私は鞄をさぐり、財布を取り出した。ちろりとお姉さんのほうを隠しみる。薄紫色の着物に、白い小花が散っている。
 私はお札を取り出しながら、懐かしい気持ちになった。
「ありがとうございました」
 お姉さんに店先まで見送られ、私達はまた歩き始めた。
「さぁ春香。今日は四条の着物屋さん、かたっぱしから巡るでぇ!」


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